焼酎の製造方法の発展!造りの改革を行った方々の歴史に迫る!!

 

本格焼酎発祥から500年と言われていますが、この過程の中で焼酎造りは様々な進化を遂げ、今日の形となりました。

進化した点は色々ありますが、このブログでは大きな変化として、以下の3点を挙げ、それに沿った説明をしていきます。

 

造りにおける大きな変化
① 製造方法の発展
② 黄麹菌から黒麴菌、白麹菌への推移
③ 自動製麹機の普及

 

今回は①について記載していき、次回は②、その次に③についての説明を行います。

 

焼酎の製造方法の発展

 

⑴ 2つの杜氏集団の存在

 

まず、杜氏とは、
「酒造りの最高責任者」のことを指します。

そして今日の(焼酎界の)杜氏の原型を築いたのが「黒瀬杜氏」「阿多杜氏」という2つの杜氏集団です。

今でこそ各蔵ごとに杜氏という役職が置かれていますが、昔は2つの杜氏集団の集落から出稼ぎとして各蔵に造りの技術指導を行っていたのです。

黒瀬杜氏、阿多杜氏は、それぞれの道を切り開き、発展途上であった焼酎業界においてその一時代を築いた方々であります。
昭和30年~40年には、黒瀬杜氏370人、阿多杜氏130人とシェアは黒瀬杜氏の方が多いですが、阿多杜氏の存在はこの業界において決して忘れてはいけない杜氏集団です。今、阿多杜氏は最後の一人となったと言われています。上堂薗孝蔵氏という方で80歳を超えていますが鹿児島県霧島市の蔵元、中村酒造さんを引き継ぐ若き杜氏に今も技術指導を行っています。

 

⑵ 杜氏集団が生まれた時代背景

 

杜氏は昔は「刀自」と書き、これは台所を仕切る先輩女性を意味していました。つまり焼酎造りは家庭で女性が行うものでした。

時代は変わり、その製造に免許が必要となりました。

一時、記録されている免許取得者は3500人(蔵)にも及びましたが、販売目的の蔵はほとんどなく、依然、家庭で飲むことを目的として免許を取得した人がほとんどというのがその実態でした。つまり、販売することもなければ、きちんとした帳簿など付けずにいたのです。

製造を免許制にしたのは当然、酒税の徴収が目的でしたが、これではその徴収は安定などしません。

そこで国は、(半ば強引に)販売目的の蔵だけを残す整理を行ったのです。
結果、約10分の1の300蔵程度になりました。

しかし、
これは300の蔵がかつての需要を満たすため、10倍以上の量の焼酎を造らなければならないことを意味していました。

ということで、
大量に焼酎を造るための本質的な技術の改革が必要となったのです。
また、家庭で造っていた焼酎というものが、産業としての焼酎にここで大きく変わったとも言えます。

上記のような時代背景もあり、2つの集落から各蔵に出稼ぎに出ていた人達が、大量に焼酎を造るための本格的な焼酎製造技術のノウハウを確立していくのです。

 

 

⑶ 製造方法はどう変わったのか

 

まずは、
現在の焼酎(芋焼酎)の製造工程を簡単にまとめましたのでご覧ください。

製麹
米を洗い、ぬか分を落とし、水に浸けて米の芯まで水を吸わせる。
蒸気で蒸し米にした後、麹菌の胞子を付ける。
40時間~42時間かけて米麹にする。
一次仕込み
麹にするための米100kgに対して予め100ml~300mlの酵母を加えた120ℓの水に麹を加える。
麹を発酵させ、焼酎用酵母を大量に作り出す。
約5日かけて一次モロミが完成する。
二次仕込み
一次仕込みでできたモロミに主原料(さつま芋)を加えてさらに発酵させる。
麹米100kgに対して270ℓ~300ℓの水を加え、500kgの蒸したさつま芋を加える。
約8日かけて二次モロミが完成する。
蒸留
発酵の終わったモロミを単式蒸留機で蒸留する。
初めは70%くらいのアルコールが留出される。10%前後のアルコールが留出されるようになった時点で蒸留を止める。
貯蔵
貯蔵することにより余剰な油性成分が分離し、原酒に透明感が出る。
ガス成分が揮散して粗さが取れる。
濾過
油性成分を適度に残しつつ濾過をかける。

ここでの着目点は、
2つ目の「一次仕込み」
3つ目の「二次仕込み」です。

家庭で造られていた当時(本格的な改革前)、上記で説明した「一次仕込み」と「二次仕込み」は分かれておらず、それらをまとめて造る「どんぶり仕込み」という手法を取っていました。

改革後は現在のように仕込みは2段階に分かれます。

では、
なぜ「一次仕込み」と「二次仕込み」を分ける必要があったのか。

 

 

⑷ 製造方法はどうして変わったのか

 

前項で記載した「どんぶり仕込み」の手法は、
麹菌の繁殖が充分にされていない中、大量の原料(さつま芋)を同時に投入することで、腐敗のリスクがあまりにも高かったのです。

さらに、
酵母がしっかりと造られていないことでアルコールの留出量も少ない。(杜氏の腕の一つにいかにして多くのアルコールを留出させるかというのがあります。)

この腐敗、アルコールの留出量における問題に対し、現在の造りによる「二次仕込み法」が生まれたのです。

まずは一次仕込みでしっかりと麹菌を繁殖させることで腐敗防止の要因となるクエン酸を生成させ、酵母を大量に増やすことで確実にアルコールを生み出す。この一次モロミ(焼酎の素)にさつま芋を加え、雑菌の繁殖を防ぎ、アルコールの留出量を確保したのです。

尚、「麹菌」については次回、しっかりとお話します。
ここも焼酎が発展を遂げた大きな要因なので!

 

 

⑸ 黒瀬杜氏の功績

 

黒瀬常一氏、黒瀬巳之助氏、片平一氏、この御3方が初代黒瀬杜氏となります。

焼酎の自家製造が禁止された明治30年以降、3人は焼酎造りの出稼ぎへと行き、下働きを始めます。
その後、鹿児島の焼酎屋で共に下働きをするのですが、そこには沖縄の泡盛造りの技術者がいたのです。その技術者から5年~8年の歳月をかけ、焼酎造りにおける技術を修得し、明治35年~38年には杜氏として独り立ちしました。

先程説明した「二次仕込み法」は3人が受けた技術指導を基に、泡盛造りの応用として生まれたと推測されています。

泡盛は全麹仕込みと言われ、二次仕込み自体がありません。(一次仕込みしかない)

泡盛造りにおけるこのような特徴をヒントに焼酎造りは飛躍的に進化しました。

その後3人は杜氏として出稼ぎに行く際は親類の若者を同行させ、その技術を伝承し、2代目杜氏を12人、3代目杜氏を34人と次第に黒瀬杜氏の人数を増やしていきました。それと同時に当時の業界の発展に大きな貢献をされてこられました。

杜氏の給料はかなり良かったみたいです。
しかし、先程から、出稼ぎ、出稼ぎと書いていますが、今の時代では考えられないくらい若い頃から親元を1年の内半分以上も離れ、そしてその仕事は本当に大変だったと思います。今では機械で行う工程も当時は全て手作業で行っていましたし、モロミの具合一つで昼夜問わず仕事を行う毎日です。いくらその集落に生まれ、やがて杜氏になったときの給料がいいからと言って、誰にでもできるものではありません。

現在も黒瀬杜氏は各蔵でその技術の伝承に力を注いでおられ、所属の蔵だけではなく、業界に与える影響力もとても大きく、皆が重宝する存在となっております。

 

 

最後に

 

高度経済成長による他の業種の発展などの要因もあり、黒瀬杜氏の名を継ぐ後継者は次第に少なくなってきました。
また、次回の内容にも精通しますが、醸造学の目覚しい発展、そして、焼酎造りにおける最もと言っていいくらい大切な「製麹」の工程による機械化により、阿多杜氏と同じく黒瀬杜氏の名もいつかはなくなってしまうのではないかとも言われています。

しかし、
かつて本格焼酎の創成期を担った杜氏集団の技術と精神は、今の時代を懸命に生きる各蔵元の杜氏にしっかりと受け継がれています。そして「より良い焼酎を」と蔵でお勤めされる方々と一丸となり、日々の焼酎造りを行っておられます。
また、この業界に生きる全ての方は、過去の偉人が作ってくださった道に敬意をはらい、日々の業務に従事しています。

黒瀬杜氏、阿多杜氏の名は本格焼酎がこの世からなくならない限り、永遠に生き続けると僕は思っています。

 

次回は、
② 黄麹菌から黒麴菌、白麹菌への推移
についてお話します。

これも本格焼酎を語る上で絶対に外せない内容なので、是非読んで頂きたいです!!

追伸
本日2月27日は、鹿児島酒造さんにおられる「現代の名工」黒瀬安光 総杜氏の81歳のお誕生日です。
心よりお祝い申し上げます。

 


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