なぜ焼酎は25度なのか?焼酎唎酒師による本気の調査結果がこれだ!!

 

❝ なぜ焼酎は25度なんですか? ❞

答えは「わかりません」でした。

もう10年以上も前の話です。
僕が初めて焼酎の造り手さんとお話をさせて頂いたときの最初の質問がこれでした。

その後、いくつもの蔵元さんに同じ問いを投げかけましたが、答えは同じでした。

 

しかし、ようやく、
自分の中で納得の理屈までたどり着きましたので、皆さんとこの情報を共有することにします。

ずっと気になっていたのに解決(納得)できなかったこの疑問に、ここでひとまずピリオドが打てそうです。

自分で言うのはおかしいかもしれませんが、

今回の内容、非常に貴重です。是非、最後まで読んで頂きたいです!!

 

酒税法

 

昭和28年に制定されました現在の酒税法では、焼酎の税率基準は20度です。

具体的に言いますと、
1キロリットル当たりの酒税は、21度未満が20万円、それ以上は「度数×1万円」という累進課税になっています。

平たく言えば、20度の焼酎が(酒税という点では)一番効率のいい焼酎となります。

この現行の酒税法、昭和15年に制定された旧酒税法を全部改正という形で制定されました。

❝ なぜ焼酎は25度なのか? ❞という問いに対する通常の答えは、この旧酒税法にあります。
旧酒税法では焼酎の税率基準を25度と定めていたのです。

また、当時の規制は厳しく、25度以上のものしか製造を許可されていませんでした。販売価格としての値段は高く、これでは当時の庶民には馴染みませんでした。そのため、戦後の混乱の中、密造酒が出回るようになり、安価で焼酎が売られるようになります。この密造酒が20度程度のものだったのです。

これを受け、国はこの密造酒撲滅と酒税の確保を目的に、昭和28年に制定された現在の酒税法では、税率基準を20度に引き下げたのです。

尚、当時、密造酒を作っていた業者は宮崎県に多くいたようで、現在、宮崎県を中心に20度の焼酎が造られているのはその名残と考えられています。

 

 

拭い去れない疑問

 

焼酎が25度の理由は、旧酒税法が税率基準を25度と制定し、今尚、それを文化として継承しているから。

通常ならここで話は終わりです。

でもここで終わったら、焼酎が25度という文化は昭和15年が起源となります。

果たして本当にそうなのか…。
僕は、ここに大きな疑問を感じていました。

旧酒税法はなぜ焼酎の税率基準を25度としたのか。この数字、どこから出てきたのだろう…。
(尚、この疑問に対する各蔵元さんの回答こそが「わかりません」というものでした)

旧酒税法が25度を税率基準とした背景には、そもそも以前から25度で焼酎を造る慣習が根付いており、それを基に制定されたものなのではないだろうか…。だとしたら、焼酎の25度の歴史の始まりは、旧酒税法が制定された昭和15年ではないということになる。そんなことを考えていました。

つまり、

焼酎が25度という文化の始まりは「法律が先」だったのか「慣習が先」だったのか? 〟ということに僕はずっと疑問を持っていたのです。

この疑問に対し、10年越しに本気の調査を行いました。
そして、いろいろな情報を基にある一つの有力な仮説(推測)が出来上がりました。

 

これです!!☟☟☟

 

旧酒税法が焼酎の税率基準を25度とした理由

 

明治32年、焼酎の自家醸造は禁止となります。
そしてこの頃から黒麹の使用が定着し、二次仕込み法も確立され始め、焼酎の収得率に加え、蒸留後のアルコール度数も上がったと考えられています。かつての杜氏集団の功績と醸造学の発展がその要因です。これは以前、お話しました。

このように高濃度のアルコール度数が造られるようになるにつれ、国もそれに応じた増税の制度を取るようになりました。
「吉野史談」という本によると、明治37年4月にその増税のことが記載されています。アルコール度数が30度を超える高濃度焼酎に対して累進課税を適応するようになったのです。

これを受け、製造業者、つまり蔵元さんはこの増税を嫌い、加水を行うようになります。

ここがポイントです!
いったい何度になるよう加水していたのかということです。

明治32年より前、自家製造時代に戻ります。
この時代、実際のアルコール度数は何度だったのか?

それが、25度くらいだったのではないかと推測されるのです。

鹿児島県霧島市の蔵元、国分酒造さんが造られる、自家製造時代の造りを再現した「維新ノ一滴」という焼酎がその根拠となります。

自家製造時代の造りを再現した結果、蒸留前のモロミのアルコール度数が7度程度、蒸留後のアルコール度数が25度前後になるそうです。
(尚、現在造られている単式蒸留焼酎全般の蒸留後のアルコール度数は、技術向上により、37度~39度くらいになっています)

このことから、明治37年4月の増税に伴い、各蔵元さんが行った加水の着地点は、自家製造時代の25度にしたのではないかというのが一連の流れと考えらます。この造りが明治の終わりから昭和の初期にかけて定着したことが、昭和15年に制定された旧酒税法が、焼酎の税率基準を25度とした根拠となります。

ゆえに、
焼酎が25度という文化は、昭和15年より前、自家製造時代の慣習がその起源である 〟という結論になります。

 

以上、多くの文献を参考にし、また、多くの蔵元さんのご意見を基に、国分酒造さんの見解を柱にまとめさせて頂きました。そんな国分酒造さんも絶対的な根拠はないとおっしゃっています。
そのことはご理解頂きたいです。

 

 

最後に

 

今回の内容は、出来る限り集めた焼酎の歴史に関する書物にもはっきりとした記載はなく、国税庁に問い合わせても不明という結果でした。

そんな中、すぐに不明という回答をされた蔵元さんもいましたが (笑) 、鹿児島酒造の営業部長は、僕の疑問に対する回答を得るために、鹿児島県は笠沙町にある「杜氏の里笠沙」という黒瀬杜氏の故郷にまでわざわざ足を運んでくださいました。
もちろん、上記で説明しました内容を提供してくださった国分酒造さんのご協力は非常に大きいものでした。

そんなご協力を頂いた蔵元さんにこの場でお礼を言わせて頂きます。
本当にありがとうございました!!

結果、これが正解です!というものは見つかりませんでしたが、現時点でこれだけ理屈の通った仮説が出たことで、皆様にもより核心に迫った情報が提供できたこと、そして何より自分自身の疑問に対して満足のいく理論が見えました。

いろいろご教授頂いた鹿児島酒造の営業部長は最後にこんなことを言っていました。

❝ あとは、あの世に行ったとき、先人に直接聞いてみるんだな ❞ と。

その際は改めて聞いてみることにします (笑)

今回も最後まで読んで頂いた方、長かったと思いますが、ありがとうございました!!

 


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